クリスタ・ヴォルフ「チェルノブイリ原発事故」
2011.04.26 23:50
チェルノブイリ原発事故 (クリスタ・ヴォルフ選集) (1997/08) クリスタ ヴォルフ 商品詳細を見る |
…あれ、なんだかけっこうな期間放置してましたね。。
仕事が忙しかったのもあるんですが(震災で少なからずダメージのあったウチの業界も、漸う回復の兆しです^^)、この本の感想をまとめるのに、予想以上に手間取ったためでもあります。
チェルノブイリ原発事故発生からわずか3ヶ月で書かれた本書は、あの事故のドキュメンタリーではありません。未曽有の原発事故に至るまでの人間の文化を、著者と思しきある女性が内省するという体裁の小説で、だから事故そのものについて書かれているわけではないです。
けれども著者ヴォルフは、先端の科学技術の恩恵を享受すると同時に、それがもたらす恐怖に晒される現代社会がはらむ問題を鋭く突きつけており、その問題は今現在も問われているのだと思いました。
以下、本書の感想と、福島第一原発事故について少々書きました。
奇しくもチェルノブイリ原発事故からちょうど25年。ちょっと長いですが、興味のある方はお付き合い下さい。
原題「Störfal」は、訳者によると直訳すれば「故障」。
原発事故という未曽有の大惨事さえも故障などどいう言葉で片付けようとする人間への皮肉が垣間見える、上手いタイトルだと思います。
東京電力福島第一原子力発電所の事故が起こったとき、真っ先に思い出したのがこの作品でした。
とにかく読もうと思って地元の書店に探しに向かったら、ヴォルフの他の作品は並んでいるのにこれだけが欠けていて、仕方が無いからamazonをあたるも何時まで経っても在庫切れ状態。セブンネットショッピングが在庫有りになっていたので注文、やっと手にしました。
案外、いま読んでいる人は多いのかもしれません。
(因みにamazon以外のネット書店では在庫有りのようです。しっかりしろ、amazon)
で、直ぐに読み終えたものの感想書くのにというかまとめるのに苦労して、何だか時間がかかってしまいました…。二周間…。以下そんな駄文ですが、どうぞお付き合い下さい。。
1986年春。東ドイツのメクレンブルクでひとり暮らす主人公のある女性(ヴォルフ自身と思われる)は、自宅の桜が満開に「爆発」したその日離れた場所で脳腫瘍の手術を受けている弟を気遣いながら、チェルノブイリ原発事故のニュースを聞いている。科学の引き起こす不安の中で、科学がもたらす救済を求めているのだ。
弟への語りかけには不安がにじんでいる。2,000キロも離れた、国境さえ越えた向こうにある場所から拡散してくる放射能という得体の知れないものへの怯え、日常に入り込んでくるベクレル、半減期、ヨウ素131、セシウムといった、これまで聞いたこともない「新しい言葉」を憶えようと努力している奇妙な日々。
その合間に、彼女はブレヒトやシューベルト、ゲーテらの詩を思い起こし、かつては賛美の対象として、あるいは想い人に重ねて謳われてきた自然が、今ではそうではなくなっていることに気付く。現代の人間は、ただ青く広がるだけの空にも放射線という見えない不安を、そこを流れていく放射能に汚染された雲にキノコ雲という悪夢を見てしまう。
いつの間に、こんなことになってしまったのか。
彼女は「科学者や技術者がたぶんしないこと、あるいは、どうしてもせざるをえなくなったら、たぶん時間の無駄と考えると思われること」として、以下のものを挙げていく―赤ん坊の日なたぼっこ、料理、子供を連れた買い物、洗濯、アイロンかけ、掃除、裁縫、食器洗い、子どもの看病、歌などなど。
そして問い掛ける、「この中に、私自身が時間の無駄だと思っているものはいくつ含まれているでしょうか?(48頁)」と。
こうしたことを、女性ならではの視点による問い掛けだと評しているのをよく見ますが、敢えて言いたい、女性男性以前に、これは地に足をつけて生きる人間の視点なのだと。
放射能に汚染されることで破壊されるもの、それは人間の営みを含めた一切だ。農業や漁業などで生計を立てている人たち普通に暮らして子供を育てている人たち、その土地で直に生きてきた人びとが代々築きあげてきたものが根こそぎ奪われる。メクレンブルクで畑を育てながら暮らす彼女―ヴォルフの視点は、たぶん彼らのそれとそれほど変わらない。
そして、そうした地に足のついた生活にかかわる一切のものを、たとえば原発に関わる科学者たちが「無駄」と切り捨てたとき、おかしな誤差が生じ始めるのではないのか。
「いったいどんな恐怖があの若い人たちをわたしたち普通の人間が「生活」と呼んでいるものからこれほどまでに隔絶させているのでしょう? 自分の解放より原子の「解放」を優先させるくらいですから、それはさぞ甚大な恐怖にちがいありません。(91頁)」
この作品が書かれたのは1986年。そして25年が経ち、当時と比べてますますコンピューターネットワークの拡大やデジタル化が進んだ今、「生活」から隔絶している人間が増えたのは言うに及ばす、その開きは更に大きくなっていると思われる。
そんな、地上から遠く離れた高い高い塔の上層部で合理的で無駄のないやり方が仕事どころか生活そのものになってしまっている「誰か」からすれば、塔の高みから見下ろす「地上」で生活している「誰か」の姿は、ぬくもりも臭いも手触りも無い数値化されたデータにでも見えるのではないだろうか。
だとしたら彼らはそこから「無駄」を省くことに、数字から数字を引くのと変わらないこととして、何らためらいを覚えないかもしれない。
このあちらとこちらの乖離に、薄ら寒い恐怖を覚える。
人間が、猿から進化しやがて「言葉」を習得し発達させたそもそもの始まりから、そこから続く未完全ゆえに満たそうとする人間の文化が行き着いた先、それがこの未曾有の危機なのではないのかと、ヴォルフは問う。人がつくり出す文化は高度に発達すると共に、常に同じ大きさの破壊力もともなう。原子力はその究極だ。
けれども、その危機を乗り越える道を創りだすのもまた人間だろう。
主人公の娘が母に語る言葉に、カギがあるかもしれない。
「できる限り多くの文化にかかわる人が、自己の真実を恐れることなく見つめる勇気をもてるなら、文化全体が救われるチャンスがあっても不思議じゃないわね。つまり、脅威の原因を外部の敵に求めるのでなく、その脅威自体の在処に、つまり、自分の内部に求める勇気をもてれば、ということよ。(130頁)」
これを主人公はユートピア的すぎる、と思う。けれども果て無い理想を追い求め破滅と表裏一体の現代のユートピアをつくり出したのは他でもない人間なのだ。そこに立ち返ることから始めるべきなのだろう。
放射能という得体の知れないものへの恐怖や手の打てなさは当時となんら変わらない現状を見る限り、ヴォルフの問いかけは、今もまだ続いているのだ。
***********
この度の東京電力福島第一原子力発電所の事故で、原発というものについていろいろ考えた。
最近、菅総理や東電の清水社長が福島の避難所で謝罪したというニュースがあって、それに対する反応が賛否両論がネットに飛び交った。
政府の責任云々は、今はおいておきます。というか現行政権をたたくなら、それ以前の国の原発政策(なんでこのことは話題にならないんでしょうね)や、それに一票を投じてきた我々有権者への批判をするべきでしょう。
気になったのは、政府や東電に対して厳しい意見を突き付けた避難している人たちに対して「でもあななたちも、原発のお陰で今まで甘い蜜を吸ってきたのでは」という意見がちらほら見られたこと。
ちょっと、この記事を見てほしい。
「原発、過酷な現場 食事はカロリーメイト・椅子で睡眠」(3月25日 朝日新聞)
東電社員に同情しろと言うつもりで引っ張ってきたのではありません。福島に知人のいる一個人としては、現地採用の現場職員や下請けの人たちには同情しても、この記事に出てくる本社採用の社員にはとてもそんな気にはなれない。むしろその逆、何でもいいからさっさと現場に行って復旧作業に当たれよ、それが他の誰でもないお前らの仕事だろ! としか言えません。
脱線しました。ええと、この記事の中盤、この部分に注目してほしい。
“夫は原発部門を希望したわけではなかった。理系の大学を出て入社し、「たまたま配属された」。以後、原発の現場と本社勤務を繰り返した。2007年の中越沖地震の際、柏崎刈羽原発で火災が起きた時も現地に2週間ほど詰めた。当時はメールや電話で様子を知ることができたが、今回は音信不通。自衛隊が接近をためらうほどの放射能の中で、「いったいどうしているのか」。”
なんとなく、本社採用の東電社員の間には(その身内も含めて)原発部門は危険だから避けたい、という風潮でもあるんじゃないのかと、疑いたくなります。
だとしたら、原発のある地域に暮らす人びとにとても失礼な話です。
原発を造るとき、造る側はその土地の住民にまず「クリーンで安全」であることを売り込みます。「ミサイルが撃ち込まれても大丈夫です!」などど言って、その安全性をアピールする。
常々思うんですが、おかしな話です。
そんなに安全でクリーンなものならば、なぜ都心の、たとえば東京湾とかには造らないのか。
東電だけではありません。全国の電力会社の原発は、いったい何処に建ってます?
みんな安心安全を謳いながら、本心では危険で怖いから自分の所には来てほしくないと思っていることの表れではないでしょうか。
おまけに原発を運営している会社の社員の認識が「危険で避けたい」というものならば、原発はやっぱりクリーンでも安全でもないのです。
ほんらい、今回の原発事故で避難を余儀なくされた人たちに対して、安全圏で電力に頼った快適な生活をしている私たちは何より申し訳なく思うはずです。
なのに、東電の営業地域を含む各地で風評被害や差別が起きている。
電気を使いまくり、もはやそれなしでは成り立たない生活を送っているのは、日本全国津々浦々全てに暮らす誰もが同じはず。なのに、原発という、実はとんでもないリスクを背負ったものを押し付けられているのは人口の少ないごく一部のエリアの人びと。民主主義という多数決が原則の社会にあって、都会に数の上では絶対に勝てない田舎は弱いものだと感じます。
冒頭で挙げた「甘い蜜」云々と口にする人に言いたい。それは確かに事実だ。けれどもその「甘い蜜」と引き換えに、私たちは実はとんでもないリスクを彼らに押し付けていたのも事実だ。おまけに今回の福島原発に至っては、東電の事業地域ではない地域に建っている。
そしてこれに対して、「甘い蜜」―お金の他に代わる何が差し出されるべきなのか。彼らの生活の一切が失われるかも知れないリスクに対して、一体何が差し出されるべきなのか。知っているなら教えてほしい。
このまま事態の収拾に時間かかかれば、原発周辺の地域は下手をすれば何十年単位で生活できなくなる。ついこの間までそこで普通に暮らしていた人たちの営みは、代々が築いてきたものごと根こそぎ失われるかもしれない。人の営みだけではない、何も知らない動植物にも放射線は容赦なく降り注ぐ。計画的避難区域内の家畜の殺処分も昨日始まっている。自分の暮らす場所があるいは故郷がそうなる恐怖を考えたことはあるだろうか。
そんなことまで承知の上で、誰が原発を受け入れるだろう。いいや原発を受け入れた時点で承知していたはずだという人がいるのなら、これほど酷い暴力もない。
東電も国も、「安心安全」を謳ってきた。謳う以上は、何があっても万全を期し最悪の事態は回避されるはずなのだと思う。
というか、回避してくれなくてはいけないのだ。放射能はいちど漏れ出すと人の手に負えない。そんな事態は何がなんでも絶対に避けなければならない、そういう態勢を、今までの東電や国はとっていたのか。そして国民は原発がこれほど危険なものだと認識していたのか。
批判されるべきは避難している人びとではないと、強く強く思いました。
今回の事故を目の当たりにして、さすがに原発を肯定する気にはなれない。けれどもそれがなければ生活が成り立たないことを思えば、さすがに今直ぐ廃止しろとも言えない。
原発に代わる次世代エネルギーに本格的に舵を切る、過渡期にきているのだと思う。ともかく一日も早く原発に代わるものをつくり出して、それまでの間は原発に頼るしかないのだろう。
けれどもそれが持つリスクは、電力を消費している誰もが平等に負うべきだ。これは人間がつくり出したもの、その危険性を一部の人びとだけに押し付けていいものではない。それこそそこに暮らす人びとの「生活」など二の次にしてやっているような原発政策なら、最初から安心も安全もないだろう。
私の出身地の自治体には原発がある。だから人ごとではない。
そして今暮らしているエリアの電力会社は、東京電力と同じく営業地域ではない場所に原発を置き、そこで作られた電気で私はテレビやネットの楽しめる快適な生活をしている。複雑である。
色々考えて、でもやっぱり、人間の生活を守ること、これがいちばん大切なことのはずだと思う。そして未だ放射能に対して打つ手のない私たちに原子力は、チェルノブイリから25年経つ今でも手に負えない危険なものでしかない、と。それでもなおこの危険なものに依存せざるをえないのなら、誰もがいちど、真剣に原子力に向き合わはなくてはいけない、そう思います。
長くなりましたが、ここまでお付き合いくださった方(いらっしゃるなら)、ありがとうございました。
不快に思われた方、これも市井の人間のひとつの意見だと思って適当に聞き流してくださると幸いです。
原発事故という未曽有の大惨事さえも故障などどいう言葉で片付けようとする人間への皮肉が垣間見える、上手いタイトルだと思います。
東京電力福島第一原子力発電所の事故が起こったとき、真っ先に思い出したのがこの作品でした。
とにかく読もうと思って地元の書店に探しに向かったら、ヴォルフの他の作品は並んでいるのにこれだけが欠けていて、仕方が無いからamazonをあたるも何時まで経っても在庫切れ状態。セブンネットショッピングが在庫有りになっていたので注文、やっと手にしました。
案外、いま読んでいる人は多いのかもしれません。
(因みにamazon以外のネット書店では在庫有りのようです。しっかりしろ、amazon)
で、直ぐに読み終えたものの感想書くのにというかまとめるのに苦労して、何だか時間がかかってしまいました…。二周間…。以下そんな駄文ですが、どうぞお付き合い下さい。。
1986年春。東ドイツのメクレンブルクでひとり暮らす主人公のある女性(ヴォルフ自身と思われる)は、自宅の桜が満開に「爆発」したその日離れた場所で脳腫瘍の手術を受けている弟を気遣いながら、チェルノブイリ原発事故のニュースを聞いている。科学の引き起こす不安の中で、科学がもたらす救済を求めているのだ。
弟への語りかけには不安がにじんでいる。2,000キロも離れた、国境さえ越えた向こうにある場所から拡散してくる放射能という得体の知れないものへの怯え、日常に入り込んでくるベクレル、半減期、ヨウ素131、セシウムといった、これまで聞いたこともない「新しい言葉」を憶えようと努力している奇妙な日々。
その合間に、彼女はブレヒトやシューベルト、ゲーテらの詩を思い起こし、かつては賛美の対象として、あるいは想い人に重ねて謳われてきた自然が、今ではそうではなくなっていることに気付く。現代の人間は、ただ青く広がるだけの空にも放射線という見えない不安を、そこを流れていく放射能に汚染された雲にキノコ雲という悪夢を見てしまう。
いつの間に、こんなことになってしまったのか。
彼女は「科学者や技術者がたぶんしないこと、あるいは、どうしてもせざるをえなくなったら、たぶん時間の無駄と考えると思われること」として、以下のものを挙げていく―赤ん坊の日なたぼっこ、料理、子供を連れた買い物、洗濯、アイロンかけ、掃除、裁縫、食器洗い、子どもの看病、歌などなど。
そして問い掛ける、「この中に、私自身が時間の無駄だと思っているものはいくつ含まれているでしょうか?(48頁)」と。
こうしたことを、女性ならではの視点による問い掛けだと評しているのをよく見ますが、敢えて言いたい、女性男性以前に、これは地に足をつけて生きる人間の視点なのだと。
放射能に汚染されることで破壊されるもの、それは人間の営みを含めた一切だ。農業や漁業などで生計を立てている人たち普通に暮らして子供を育てている人たち、その土地で直に生きてきた人びとが代々築きあげてきたものが根こそぎ奪われる。メクレンブルクで畑を育てながら暮らす彼女―ヴォルフの視点は、たぶん彼らのそれとそれほど変わらない。
そして、そうした地に足のついた生活にかかわる一切のものを、たとえば原発に関わる科学者たちが「無駄」と切り捨てたとき、おかしな誤差が生じ始めるのではないのか。
「いったいどんな恐怖があの若い人たちをわたしたち普通の人間が「生活」と呼んでいるものからこれほどまでに隔絶させているのでしょう? 自分の解放より原子の「解放」を優先させるくらいですから、それはさぞ甚大な恐怖にちがいありません。(91頁)」
この作品が書かれたのは1986年。そして25年が経ち、当時と比べてますますコンピューターネットワークの拡大やデジタル化が進んだ今、「生活」から隔絶している人間が増えたのは言うに及ばす、その開きは更に大きくなっていると思われる。
そんな、地上から遠く離れた高い高い塔の上層部で合理的で無駄のないやり方が仕事どころか生活そのものになってしまっている「誰か」からすれば、塔の高みから見下ろす「地上」で生活している「誰か」の姿は、ぬくもりも臭いも手触りも無い数値化されたデータにでも見えるのではないだろうか。
だとしたら彼らはそこから「無駄」を省くことに、数字から数字を引くのと変わらないこととして、何らためらいを覚えないかもしれない。
このあちらとこちらの乖離に、薄ら寒い恐怖を覚える。
人間が、猿から進化しやがて「言葉」を習得し発達させたそもそもの始まりから、そこから続く未完全ゆえに満たそうとする人間の文化が行き着いた先、それがこの未曾有の危機なのではないのかと、ヴォルフは問う。人がつくり出す文化は高度に発達すると共に、常に同じ大きさの破壊力もともなう。原子力はその究極だ。
けれども、その危機を乗り越える道を創りだすのもまた人間だろう。
主人公の娘が母に語る言葉に、カギがあるかもしれない。
「できる限り多くの文化にかかわる人が、自己の真実を恐れることなく見つめる勇気をもてるなら、文化全体が救われるチャンスがあっても不思議じゃないわね。つまり、脅威の原因を外部の敵に求めるのでなく、その脅威自体の在処に、つまり、自分の内部に求める勇気をもてれば、ということよ。(130頁)」
これを主人公はユートピア的すぎる、と思う。けれども果て無い理想を追い求め破滅と表裏一体の現代のユートピアをつくり出したのは他でもない人間なのだ。そこに立ち返ることから始めるべきなのだろう。
放射能という得体の知れないものへの恐怖や手の打てなさは当時となんら変わらない現状を見る限り、ヴォルフの問いかけは、今もまだ続いているのだ。
***********
この度の東京電力福島第一原子力発電所の事故で、原発というものについていろいろ考えた。
最近、菅総理や東電の清水社長が福島の避難所で謝罪したというニュースがあって、それに対する反応が賛否両論がネットに飛び交った。
政府の責任云々は、今はおいておきます。というか現行政権をたたくなら、それ以前の国の原発政策(なんでこのことは話題にならないんでしょうね)や、それに一票を投じてきた我々有権者への批判をするべきでしょう。
気になったのは、政府や東電に対して厳しい意見を突き付けた避難している人たちに対して「でもあななたちも、原発のお陰で今まで甘い蜜を吸ってきたのでは」という意見がちらほら見られたこと。
ちょっと、この記事を見てほしい。
「原発、過酷な現場 食事はカロリーメイト・椅子で睡眠」(3月25日 朝日新聞)
東電社員に同情しろと言うつもりで引っ張ってきたのではありません。福島に知人のいる一個人としては、現地採用の現場職員や下請けの人たちには同情しても、この記事に出てくる本社採用の社員にはとてもそんな気にはなれない。むしろその逆、何でもいいからさっさと現場に行って復旧作業に当たれよ、それが他の誰でもないお前らの仕事だろ! としか言えません。
脱線しました。ええと、この記事の中盤、この部分に注目してほしい。
“夫は原発部門を希望したわけではなかった。理系の大学を出て入社し、「たまたま配属された」。以後、原発の現場と本社勤務を繰り返した。2007年の中越沖地震の際、柏崎刈羽原発で火災が起きた時も現地に2週間ほど詰めた。当時はメールや電話で様子を知ることができたが、今回は音信不通。自衛隊が接近をためらうほどの放射能の中で、「いったいどうしているのか」。”
なんとなく、本社採用の東電社員の間には(その身内も含めて)原発部門は危険だから避けたい、という風潮でもあるんじゃないのかと、疑いたくなります。
だとしたら、原発のある地域に暮らす人びとにとても失礼な話です。
原発を造るとき、造る側はその土地の住民にまず「クリーンで安全」であることを売り込みます。「ミサイルが撃ち込まれても大丈夫です!」などど言って、その安全性をアピールする。
常々思うんですが、おかしな話です。
そんなに安全でクリーンなものならば、なぜ都心の、たとえば東京湾とかには造らないのか。
東電だけではありません。全国の電力会社の原発は、いったい何処に建ってます?
みんな安心安全を謳いながら、本心では危険で怖いから自分の所には来てほしくないと思っていることの表れではないでしょうか。
おまけに原発を運営している会社の社員の認識が「危険で避けたい」というものならば、原発はやっぱりクリーンでも安全でもないのです。
ほんらい、今回の原発事故で避難を余儀なくされた人たちに対して、安全圏で電力に頼った快適な生活をしている私たちは何より申し訳なく思うはずです。
なのに、東電の営業地域を含む各地で風評被害や差別が起きている。
電気を使いまくり、もはやそれなしでは成り立たない生活を送っているのは、日本全国津々浦々全てに暮らす誰もが同じはず。なのに、原発という、実はとんでもないリスクを背負ったものを押し付けられているのは人口の少ないごく一部のエリアの人びと。民主主義という多数決が原則の社会にあって、都会に数の上では絶対に勝てない田舎は弱いものだと感じます。
冒頭で挙げた「甘い蜜」云々と口にする人に言いたい。それは確かに事実だ。けれどもその「甘い蜜」と引き換えに、私たちは実はとんでもないリスクを彼らに押し付けていたのも事実だ。おまけに今回の福島原発に至っては、東電の事業地域ではない地域に建っている。
そしてこれに対して、「甘い蜜」―お金の他に代わる何が差し出されるべきなのか。彼らの生活の一切が失われるかも知れないリスクに対して、一体何が差し出されるべきなのか。知っているなら教えてほしい。
このまま事態の収拾に時間かかかれば、原発周辺の地域は下手をすれば何十年単位で生活できなくなる。ついこの間までそこで普通に暮らしていた人たちの営みは、代々が築いてきたものごと根こそぎ失われるかもしれない。人の営みだけではない、何も知らない動植物にも放射線は容赦なく降り注ぐ。計画的避難区域内の家畜の殺処分も昨日始まっている。自分の暮らす場所があるいは故郷がそうなる恐怖を考えたことはあるだろうか。
そんなことまで承知の上で、誰が原発を受け入れるだろう。いいや原発を受け入れた時点で承知していたはずだという人がいるのなら、これほど酷い暴力もない。
東電も国も、「安心安全」を謳ってきた。謳う以上は、何があっても万全を期し最悪の事態は回避されるはずなのだと思う。
というか、回避してくれなくてはいけないのだ。放射能はいちど漏れ出すと人の手に負えない。そんな事態は何がなんでも絶対に避けなければならない、そういう態勢を、今までの東電や国はとっていたのか。そして国民は原発がこれほど危険なものだと認識していたのか。
批判されるべきは避難している人びとではないと、強く強く思いました。
今回の事故を目の当たりにして、さすがに原発を肯定する気にはなれない。けれどもそれがなければ生活が成り立たないことを思えば、さすがに今直ぐ廃止しろとも言えない。
原発に代わる次世代エネルギーに本格的に舵を切る、過渡期にきているのだと思う。ともかく一日も早く原発に代わるものをつくり出して、それまでの間は原発に頼るしかないのだろう。
けれどもそれが持つリスクは、電力を消費している誰もが平等に負うべきだ。これは人間がつくり出したもの、その危険性を一部の人びとだけに押し付けていいものではない。それこそそこに暮らす人びとの「生活」など二の次にしてやっているような原発政策なら、最初から安心も安全もないだろう。
私の出身地の自治体には原発がある。だから人ごとではない。
そして今暮らしているエリアの電力会社は、東京電力と同じく営業地域ではない場所に原発を置き、そこで作られた電気で私はテレビやネットの楽しめる快適な生活をしている。複雑である。
色々考えて、でもやっぱり、人間の生活を守ること、これがいちばん大切なことのはずだと思う。そして未だ放射能に対して打つ手のない私たちに原子力は、チェルノブイリから25年経つ今でも手に負えない危険なものでしかない、と。それでもなおこの危険なものに依存せざるをえないのなら、誰もがいちど、真剣に原子力に向き合わはなくてはいけない、そう思います。
長くなりましたが、ここまでお付き合いくださった方(いらっしゃるなら)、ありがとうございました。
不快に思われた方、これも市井の人間のひとつの意見だと思って適当に聞き流してくださると幸いです。
スポンサーサイト