今となってはちょっと信じがたい、そんな時に埋もれかけた歴史を丁寧に掘り起こしているのが本書。偏見を持ちがちな日本の近代刺青の、意外な歴史です。
平均年齢が高めのウチの会社では、時々どこの銭湯が良かったとかあそこの銭湯はいまいちだったとかいう話題で盛り上がります。
近所の銭湯のみならす出張先のホテルにも銭湯付きかどうかに拘る姿に、おっちゃんおばちゃんはなぜああも銭湯が好きなんだろうかと銭湯に行くということをしない私は不思議に思うんですが、その時に必ずと言っていいほど話題に上るのが刺青の話。
どこそこには背中どころか全身に紋々を入れたのがうじゃうじゃいるだの、時々自慢気に見せてくるのがいるだの、男風呂が永遠に知らない世界の私には永遠にうかがい知れないことをよく聞きます。で、刺青を見たければ銭湯に行くのがいちばんなのかしらん、とか思います。けれども女性の私には、やっぱり永遠に無理な話なんですが(笑)。
そして刺青が、如何に隠されている文化なのか、こういう時に実感してしまう。
そう遠くない昔、日本では見事な刺青を全身に入れている男達が多くいた。火消しや駕篭かき、馬丁や車夫といった者たちで、蒸し暑い夏になると、「第二の衣服」であるようなそれを見せるように着物を過ぎ捨て闊歩する姿があったという。
こうした日本の近代刺青は、江戸時代に飛躍的な発展を遂げ民衆の間に広まり明治以降も谷崎潤一郎の「刺青」にも名の出てくる名人の彫り師を生み出していくが、政府はこれを「近代化」していく過程で「野蛮な風習」とみなし禁止していく。
ところが欧米人の目には、これがとても魅力的に映ったようで、日本を訪れた兵士や水兵のみならず王室を含めた上流階級で熱狂的なブームになる。ポリネシアやアメリカン・インディアンの間にも刺青の文化はあるが、色彩・図像とも、精緻で鮮やかな芸術の域にまで高められていた日本の刺青は驚きを持って迎えられ、加えてそれは、浮世絵と同じくエキゾチックな「ジャポニズム」としてもてはやされる。
そもそも、19世紀の欧米は刺青が流行していた。英語の「タトゥー(tattoo)」の語源がタヒチの言葉であるのが示すとおり、南太平洋諸島を植民地化していく過程で広まり始めたものだが、ファッションというよりは海での遭難事故の際身元を割り出す手掛りになるというような実用的な面から受け入れられていたらしく、興味深い。それが船員や水夫のみならず、思いがけず上流階級にも広まっており、厳格なヴィクトリアンの時代でもあった19世紀の意外な一面を見た気がします。
王室を始めとする上流階級でのブームの火付け役は、イギリスのエドワード7世(1841~1910,在位1901~1910)。ヴィクトリア女王の長男でその後を継いだ王ですが、厳格な母への反発からか、とても奔放な人物だったことで有名(国民には人気があったようです)。彼が日本で刺青を入れたことをきっかけに、ヨーロッパ各国の王室の人間が競うように日本の刺青を入れるようになる。ヨーロッパ各国の王室は、婚姻を通じて真面目に調べようとしたら逆にこんがらがってくるような錯綜した関係にあり、それがエドワード7世の趣味を広めるのに一役買っていたようだ。英国王室に至っては、この時期日本の刺青を入れることが「伝統」になっている。
日本で刺青を入れたと言われる人物は、イギリス王室関連ではエドワード7世に始まりその弟のアルフレッド、アーサー(コノート公)、子息のアルバート・ヴィクター、ジョージ(のちのジョージ5世)、甥のアーサー(コノート公の子息)。ヨーロッパ各国ではロシア皇帝ニコライ2世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とその弟のハインリッヒ(この二人については確証はないらしい)、オーストラリア・ハンガリー帝国のフェルディナンド大公など錚々たる顔ぶれだ。
欧米各国の王室及び上流階級での日本の刺青の流行時期は、日本の明治期(1868~1912)とほぼ重なっているという。その期に活躍した刺青の彫り師の名は何人か残っているが、その中でも最高の名人は彫宇之であったという。ところが諸外国において彫宇之の名は全く知られておらず、変わって唯一名の知れていたのは彫千代という彫り師だった。彼は腕前では彫宇之には遠く及ばず日本国内での評価もぱっとしなかったが、にもかかわらず海外での評価が突出していたのは、彼が士族の出で当時の彫り師としては教養も高く英語が理解できたため、海外の顧客を多く持っていたからだと思われる。
そんな欧米各国で世界一だと第大絶賛された日本の刺青だが、その地位は第一次大戦を堺にアメリカにとって変わられる。それは改良されたタトゥー・マシン普及によるもので、以後、刺青=タトゥーの中心地はアメリカになって現在に至る。
ところで、エドワード7世以来日本の刺青を入れることが「伝統」となっていたイギリス王室のその後について、興味深いことが書かれてある。
1922年、ジョージ5世の長男エドワード王子(ウィンザー公、のちのエドワード8世)が日本を訪問、伝統に従って刺青を入れようとしたが叶わなかった。これには当時の日英の力関係が関わっていたのでは、と著者は指摘する。当時の日本は列強としての地位を確立しており、かつてのように自国の野蛮で違法なものを要求する欧米列強に唯々諾々と従うのではなく、彼らの要求を拒否することができるようになっていたのだ。
「野蛮」であるとして禁じた文化が思いがけす欧米各国に受けるというジレンマを味わっていただろう当時の日本政府や関係者は、せいせいしていたんじゃないだろうか。
それから、日本の刺青は専らアウトローの背負うもの、という固定観念が出来上がり何となく見てはいけないものになり、欧米で熱狂的に流行までしたかつての豊かな刺青文化の影もない。
思えば刺青とは奇妙なものだ。もともとは呪術的な意味合いで彫られていたものが、いつからか色彩から絵柄から芸術的なものへと変貌したけれども、私たちはそれの歴史を直接追うことが出来ない。何故なら刺青は、生きた人間の肌に息づく生きた芸術だからだ。それを背負う人物の肉体が滅びると同時に、刺青も滅んでいくのだ。過去の名人として名を残す彫り師たちの仕事は、だから永久に失われて見ることは叶わない。
そんなことを思うと、かつての欧米人のように刺青に魅了されていく気持ちが何となくわかる気がするのである。
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